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過去に執筆した原稿の中から ~アメリカンモータースポーツシーン 99年2月号~

40年前の現実

当時、年に1度だけ航空記念日と称して米軍立川飛行場が一般に開放される日があった。記憶にあるのはボクが小学校に通っていた頃、50年代終わりから60年代初めの話だ。もちろん、まだ第1回日本グランプリレースも開催されいない。日本に近代自動車レースが登場する前だ。

AMSの読者は米軍(アメリカの軍隊、今のUSエアフォースのことだ)立川飛行場と聞いていぶかしがるかもしれないが、実際、あのころは首都圏にも米軍が駐留していて、立川、横田、横須賀といった米軍基地はまさにアメリカだった。

町を走る車といえば米屋さんのオート三輪か汲み取り屋さんのバキュームカー、あるいはどこぞのお金持ちが乗るアメ車だったり進駐軍のジープという時代背景の中、ふつうの少年と変わらぬ大空をはばたく夢を持っていたボクはゴム動力の飛行機、いわゆるライトプレーンをできるだけ長い時間飛ばすことに一生懸命な毎日を送っていた。

昔も今も鉄棒の逆上がりができないくらいだから自分で体を動かすことは苦手な方だが、もともと物を作ったりその物を動かすための工夫は得意だった。たびかさなる失敗の末に完成したA級ライトプレーンはかなりの滞空時間を記録し、東京都の大会でも好成績を残した。

自分の夢をはばたかせることに成功すると、直接操縦できないライトプレーンにもどかしさを感じ、次のステップに進むことになる。エンジン付きの飛行機をワイヤーでつなぎ自分を軸に周回させるUコンがそれだ。あの頃の小学生にとって、「乗り物」を自分で操ることができる唯一の手段だったはずだった。

確か小学校5年の時だったと思う。初めて立川飛行場の航空記念日に行われる模型飛行機大会を見に行った。と言っても自分で参加したのではなく、在日アメリカ人も含むベテランがおりなす高度な技と、アメリカ人が持ち込んだ最新の模型を見たいがためだった。

実のところは、その頃出入りしていた研究熱心な東京品川の三澤模型の主、「ケイちゃん」が、学校の先生よろしく我ら飛行(非行)少年を引率して連れて行ってくれたのだが...。

なにしろ40年あまり昔の話。具体的なイメージを思い出せるわけではないが、それが10歳の少年の目に鮮烈なショックを与えたことははっきりと記憶に残っている。

MPと書かれた鉄かぶとをかぶったカッコイイ兵隊さんの横を通り、当時は確かにも日本の中にあったアメリカに入る。突如として視界が開ける。

滑走路には戦闘機や爆撃機が勢揃いし、カーキ色に塗られた見たこともない自動車が走りまわる。広い、広い芝生の上では模型飛行機の競技会を含めた様々な催しが繰り広げられている。

驚いたことに、Uコン用の飛行場があった。半径30mほどを舗装したパッドだが、いつも小学校の校庭で土ぼこりにまみれ、いつ用務員さんがどなり込んでこないかと気にしながらUコンを飛ばしていた自分達の環境とは大違いだった。

「ケイちゃん」の案内でそこかしこを見て回る。もはや気持ちは模型飛行機にあらず。初めて体験するアメリカの空気そのものに身をまかせ感動していた。そんな感覚だったと思う。

と、刈りそろえられた広い芝生を前庭にもつ住宅地の一角で、とんでもないものを目にする。

アメリカ人の子供がエンジン付きのちいさな車で走りっこをしているではないか。運動場のような楕円形の土のコースだ。今や死語だし当時には、もちろんそんな表現もなかったが、まさに「ウッソー。信じられない」と形容がピッタリの光景だった。

なんで子供が車を運転できるの? 遊園地にある電気式の乗り物には乗ったことがあるが、あれはレールの上を走るだけの他力本願的乗り物で、自分の意志で動かしているのではない。

なんで子供用のきれいな自動車があるの? いつも模型飛行機にあきた時に仲間と乗っているのは、木製のりんご箱に戸車を逆さにつけた、坂道でしか走らない乗り物だ。何回か走るうちに戸車がはずれて胴体着陸してしまうようなシロモノだ。改良に改良を重ねて取り付けたステアリング装置も、愛車の進路を意のままに変えることはできない。

なんで走る場所まであるの? いつも八百屋さんのおじさんに叱られながら愛車を走らせていたのは、家の前のゆるやかな坂道だ。

なんで? なんで?

なんで日本人の子供にはエンジン付きの自動車と、走るところがないの?

いつもの生活に戻ったあとでも、立川飛行場で見た子供用の自動車のことが忘れられない。子供が自分で自動車を運転できることを知ってからは、もう模型飛行機のことと、大空を舞うことはすっかり忘れていた。

なにしろ小学校の低学年の時に書いた作文には、将来なりたいのはバキュームカーの運転手という一文が残っているのだから、よほど車が意識の中に浸透していたのだろう。あの日からは自動車が自分の世界の完全に覆うことになる。

「ケイちゃん」に頼んだのか、従兄弟に頼んだか定かではない。が、ある日例の小型自動車のパンフレットが手元に届く。あの絵本で見たことのあるインディーカーに似た子供用の自動車の発売元は横浜の「ミゼッティ工業」で、アメリカ製ではあるが一般にも販売しているという。

公道を走行できる車かどうかは問題ではなく、まず子供専用の自動車が売られていると言うことがなによりの驚きだったし、天から与えられた贈り物だった。

おそらくフジ09エンジンを手に入れるのと同じ感覚だったのだろう。しかし、誰かに値段を問い合わせてもらいその価格を父親に告げた時、もう一度大いに驚くことになる。

何と、当時父親が手にしていた月給の4倍近い値段がついていたのだ。駐留するアメリカ人は個人の所有物として非関税で日本に持ち込めるが、それが一歩日本の中のアメリカを出るとかなりの税金を払わなくてはならない。それで父親や親戚一同が目をひんむくほどの値段になるのだ、ということを後で知るのだが...。

しかし、自動車に初めて体が震えるほどの昂揚を覚えた少年は、自分の自動車が手に入らないことを知るや、ますますクルマにのめり込んでいく。

一方では、アメリカにあって日本にないものがあるという現実。日本の子供にできないことがアメリカの子供にはできるという事実。何が理由でそうなのか判らないまま、逆に気持ちの中ではアメリカへの期待が増していく。ところ狭しと散らかっていた模型は片づけられ、机の上にはその代わりに自動車雑誌が増え始める。

中学校に進むと休み時間の愛読書は、モーターファンになりモーターマガジンになる。もちろん読んで理解できるわけではない。独立懸架装置がどんな効果をもたらすのかとか、OHCはOHVに勝るのかとか、運転したこともないくせに自動車の動きをかってにああだこうだと推察するのが至極の時間だった。

まだ第一回日本グランプリは開かれていない。

まだ日本の大部分がモータースポーツの何たるかを知らないこの時代に、アメリカには4歳から始められる自動車レースがあった。それが、あの立川飛行場で見た子供用自動車を使ったクォーターミヂェットレースだということを知るのは、もちろんずっと後のことである。

そして今、アメリカがモータースポーツの黄金期を向かえようとしているのと対照的に、日本はものまねばかりで、いまだに車を使った楽しみ方を探せずにいる。

日本はこの40年間どこへ行こうとしてきたのか。そして、これからどこへ行こうとしているのか。