過去に主宰したレーシングスクールでよく見掛けたことだが、サーキットに来るなり(あるいは前の晩からか?)、自分に呪文をかけてしまう人がいる。「絶対に速く走るゾ」とか「限界に挑戦するゾ」とか。あげくのはては、肩に力が入っているものだから、理論の説明が頭の中を素通りしてしまう。
サーキットで「そうなる」ことは間違いなくペケだ。「そうなった」時点で、その運転手はクルマを操作する基準を「自分」から絶対的な「速さ」に切り替えてしまったからだ。その運転手は、もはや自分の技量という相対的でかつ慣れ親しんだものさしを捨て、未知の領域に踏み込んでいるからだ。
まさにクルマが牙をむくにはうってつけの状況。いじの悪いクルマなら、待ってましたとばかりに運転手の操作が破綻するのを待っているだろう。
とにかく、コースインして徐々に速度を上げていく人もいれば、最初から「これでもか」と右足に力が入っている人もいる。サーキットでは「これでもか」という気合とラップタイムが決して比例しないことを知らないのだ。
で、結論から言えば、慎重な前者も無謀(?)な後者も概して両者に差はない。両者とも「自分の尺度」でなく「なんとなく速い」という呪文で走っているからだ。
日本からアメリカのジムラッセルレーシングスクールを受けに来た230人あまりのという受講生を見てきて「速い人」を相当数目にした。「スムースな人」もそれなりにいた。しかし「上手い」と思える人はあまりいなかった。
「上手い人」とはどんな種類の運転手か?
上手いと思う理由はひとつではないが、強いて挙げればステップアップの仕方だ。
ある人は、ベストラップが1周1分50秒ぐらいのコースで、各セッションごとに着実に速くなっていった。最初のセッションは最高2分10秒で終わったが、12周のセッションを通して1周目の2分35秒からタイムは上がりっぱなし。結局、数回のドロップはあったが、次の周は間違いなく前の周より速く、次のセッションは絶対に前のセッションより速いという走り方をした運転手だった。
もちろんタイムが上がるほどに「縮む度合い」は少なくなる。するとどうだろう。最終セッションでは2分近いコースなのにコンマ5秒の間にラップタイムがそろっているという見事な走りを披露してくれた。
そう、彼が着実に速さを増したのは、「絶対の速さ」を求めたのではなく、まして「呪文」をかけられたから速くなったのでもなく、「自分の技量」を座標軸の原点として「相対的」な自分の速さを追求しようとしたからだ。
一方、「ド〜ンッ」と飛び出していった彼はラップタイムに波があり、ひどい時には4秒近く差があるというありさま。本来スロースターターだったのだろう、彼はいつまでたってもペースがあがらず、かと言ってラップタイムがそろっているわけでもなく、走る目的すら疑ったものだ。
そう、やみくもに走っても速くはならない。それどころか、危険が増すばかりだ。
絶対的であいまいな速さを求めても楽しくはないはずだ。ストレスのはけ口をクルマに求めるのは、その潜在的危険性から言って犯罪に近いものがある。
クルマさんと楽しく付き合いたいのなら「自分の」、「相対的な」、「客観的な」ものさしを用意して、「後戻りしなくてすむぐらいのステップ・アップ」を続けていくことだ。
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