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過去に執筆した原稿の中から ~アメリカンモータースポーツシーン 99年1月号~

日本のモータースポーツ

前に、アメリカのモータースポーツと比べて日本のそれは30年遅れていると書いた。30年というのはひとつの比喩だが、日本とアメリカのモータースポーツに四半世紀以上携わってきた目から見ると、実際には気の遠くなるほど遅れていると痛感する。なぜ日本は他のモータースポーツ先進国に比べて遅れているのか。理由はそれこそ星の数ほどあるが、最終的には日本という国のあり方に答えを探さざるを得ない。今までは意識的に避けてきた話題ではあるが、政治にしろ経済にしろ世界の流れについていけない日本が注視されている現在、その理由を明確にし改めてモータースポーツのあり方を問う必要があるはずだ。

日本の特異性

今までアメリカの車社会やモータースポーツについて雑誌のために書いた原稿、あるいは自動車メーカーに提出したレポートの中に必ず使ったフレーズがある。「アメリカにはありとあらゆる種類のモータースポーツがある」という、自分が20数年間アメリカで経験したことや感動したことをすなおに表わした一文だ。

実際、アメリカには日本人では想像もできないほどの数の原動機付きの道具を使った競技がある。そのごく一部がCARTやIRLに代表されるオープンホイールレーシングであり、モータースポーツにおける世界最大のヒエラルキーを形成するNASCARに導かれるストックカーレーシングなのだ。

そう、ツインリンクもてぎの開業にあわせ日本でもアメリカンモータースポーツが脚光を浴びている雰囲気にあるが、日本で見聞きできるCART、NASCARなどのイベントはアメリカのモータースポーツ全体を構成するあくまで要素のひとつでしかない。

しかし、日本のレース関係者の口から「これからはアメリカンモータースポーツの時代だ」と聞かれるようになったのはいいが、誰もその実態を正確に把握することもなく、その実体を広く一般に知らしめようとする努力もされていない。アメリカンモータースポーツの導入を御旗に掲げているツインリンクもてぎですらそうなのだから、消費者の立場にある人々がアメリカンモータースポーツの何たるかを知ることは不可能に近い。

日本のメディア一般に言えることだが、日本人の異文化に対する知識欲というのはかなり偏っている。特に全体の絵を見ないでも、あるいは理解しないでも、断片的な情報さえあればそれだけで満足することができる特異な傾向がある。

アメリカのモータースポーツを扱った日本の雑誌にNASCARやCART、USACやNHRAという単語が出てきた時、それらに興味を持っているにもかかわらず、具体的なイメージを抱くことなく目の前の事象だけを容認することができる体質が日本人の中にあるということだ。

例えば、ツインリンクもてぎでドラッグレースが行われると、そこそこの観客が集まるそうだ。しかし、果たして何人の関係者や観客がNHRAの実体を把握しているだろうか。

誤解しないで欲しいのはNHRAの実体を知らなければドラッグレースを見る資格がないとか、知らなければドラッグレースの面白さは判らないといっているわけではない。

NHRA自体が8万人の会員を擁する世界最大の自動車クラブだということはあえて知る必要はないが、NHRAが公認する競技の9割近くが誰でもが気軽に参加できるハンディキャップレースだということを知っているのだろうか。「全米240ヶ所あまりのドラッグストリップで毎週行われている小さなイベントがあり、その上にプロクラスと呼ばれる全米を転戦するシリーズがあるからこそ、消費者にその速さという商品を売ることができる」ことに気付いている日本人は少ない。

日本で行われているドラッグレースのほとんどは、アメリカで言えばプロクラスのレースだ。本場アメリカでも頻繁に行われている類のイベントではない。いわゆるアメリカでドラッグレースが意味するグラスルーツのイベントは、カーボーイ誌が後援している0−200mのイベントぐらいしかないのだ実状だ。誰がトップフューエルや、はてはジェットカーまでが出走するイベントを始めたか知らないが(本当は知っているが)、ドラッグレースの導入からして順序が逆なのだ。

ファニーカーやトップフューエルが走るのを見てマニアと称される人は満足かも知れない。 が、それは何ら日本人にとって脈絡のない「速さ」なのだ。そうだろう。加速競争を見ているだけでは、それが面白いものだかどうか判るはずがない。自分で体験しないまでも、日本に簡単にドラッグレースに参加できる環境があれば、見方は変わってくるはずだ。しかし、日本では見せる方が圧倒的優位に立ち、見る側は、見ることを拒否する以外に選択の余地を与えられていないのが実状だ。

ボクにとって待望のスーパースピードウエイを使ったストックカーレースが開催されたが、NASCARウィンストンカップがアメリカで一番人気のあるレースだと聞いて、ウィンストンカップを頂点としたストックカーレースのピラミッドがどれほど大きなものか想像できた人が何人いるだろうか。極端な話、知らない人はツインリンクもてぎで行われた本場の雰囲気とはほど遠いレースですら、「これががストックカーレースなのか」と思い込んでも不思議ではない。

もちろん異文化の導入時には派手なイベントで市場の興味を引きつける必要があるのはわかる。しかしゼロスタートで形のある物を作り上げていく過程でその背景なり全体図を示さなければ、消費者がイベントの価値を値踏みできないのも事実だ。CARTやNASCARのイベントがいかに喧伝されようと、消費者は目にするイベントの内容だけでその価値を判断するしかないではないか。

今年のレースでも絶対的に情報が不足していたから、「また来年寒くても絶対に見に来るぞ」と自らを動機づけられる観客が何人いたか。むしろ、「寒いしこの程度の迫力じゃ一回見れば十分」と判断した人が多かったのではないか。

それでもアメリカのストックカーの全体像が把握できていれば、今年の内容がお粗末でも来年に期待つなぐ人が出てくる可能性はあるはずだ。

外国にすばらしいソフトがある。アメリカに大観衆を集めるイベントがある。それを日本に持ってくることはいいことだ。人々には知る権利があるし、日本にはないソフトを導入することでビジネスチャンスも生まれる。

ボクも、それをライフワークに選んだくらいなのだから、アメリカンモータースポーツを日本に導入することは大賛成だ。

しかし、ボクの目から見てアメリカンモータースポーツの日本への導入がスムースにいっているとは思えない。何か絵空事のような気さえする。

要するに、今日本が抱えている問題は、異文化をどういう方法で導入すべきなのか、明確な指針を持っている人がいないことだ。

エンターテイメントを核とするサービス産業がここまで発達しなければ、世間から見て特殊なモータースポーツという商品にも多少は存在価値があったかもしれない。しかし時代は変わる。

何を導入すればビジネスとして成り立つかは、単に情報があれば解決のつく問題だ。首都圏に数多くのアミューズメント施設やテーマパークが存在する現在、もはや新しいものを導入するだけで入場券が売れる時代ではない。

どうころんでも日本はアメリカのリーダーシップに翻弄されるだけだ。だからアメリカンモータースポーツに着目したところまでは時流にそくしている。しかし問題なのは、どういう方法でそれを導入するかが問われる時代なのに、それを日本のレース関係者は判っていない。いまだに(日本にない)何かを導入すれば事足りる。あとはまいた種が育つのを待てばいいという旧態然とした思考と意識しか持ち合わせていない。

メディアにしてもそうだ。新しいものの導入はうまくいけば市場の活性化につながるが、編集者が自分の常識でしか価値を判断しないから、わざわざ面倒くさいことまで勉強しようとは思わない。アメリカンモータースポーツの人気がでれば、それはとりもなおさずメディアのビジネスが拡大するチャンスでもあるのに、日本流の意識から一歩も外に出ないで新しいものをこれまた日本流に消化している。

アメリカという国の一部が日本にやって来るというのに、それをわざわざ日本人に判る表現に翻訳して媒体に載せる。

パソコン通信やインターネットなどの発達で印刷媒体のあり様も変わらなければならないはずなのに、いまだに何を報道すれば言いかという点が彼らのゴールであり、彼らの意識は、それをどう報道すべきかという点まで至っていない。

確かに、画一的でありながら競争の激しい日本の社会では、まず何に目をつけるかが重要で、そのあとのことは二の次なのかも知れない。あるいは、「新しいものはどう転ぶか判らないから、大多数の人々の気運が高まるまで様子を見よう」と傍観しているのか。でも、それって異文化に対してずいぶんと失礼な話だと思う。

アメリカのモータースポーツはどれも長い時間をかけて地道に成長してきたものばかりだ。逆に、そうではなかった故に、既に市場から消えているジャンルも少なくない。

現存するカテゴリーは、太い細いは別にして、どれも方向性を持つ線として長い時間をかけて発展してきた。なのに、長い線のある一点だけ取り上げ、その全体を日本に平行移動させようとしても、物理的に不可能な話ではないか。

ことモータースポーツに限っても、日本とアメリカではただでさえ環境に大きな隔たりがあるのだから、アメリカのイベントを招聘すれさえすればことたりるという思想は不遜きわまりない。

異文化をまっとうに紹介したり導入できないのであれば、「こういう面白いレースがアメリカにはあります。ぜひ見に行きましょう」と呼びかける方が、よほど消費者に対しても、アメリカに対しても顔向けができるはずだ。

独占対共存共栄

話が個人的な見解に終始してしまっては本末転倒だから、改めてなぜアメリカンモータースポーツが多様なのかを説明しよう。

日本で競技者なり公認審判員のライセンスを取得した人は知っていると思うが、日本のモータースポーツは原則的に全てJAF(日本自動車連盟)が統括している。ライセンスの発給や競技会の開催申請などの許認可もそうだし、イベントのカレンダー調整から車両規則の制定まで、あらゆることがJAFの権能で行われる。

JAFの上部組織が世界の四輪のモータースポーツを統括しているFIA(国際自動車連盟)で、原則的にひとつの国にひとつのASN(国内自動車クラブ)を認めている。日本の場合はJAFがそれにあたる。ドイツはADAC、イギリスはRAC、オーストラリアはCAMSがASNだ。

基本的にASNが公認したイベントが正規の競技となり、ASN発行のライセンス所持者は該当するイベントにしか参加できないし、運営にたずさわることもできない。全ては上意下達の世界であり、全くもって市場優先主義から生まれた行政ではない。つまり独占だ。

ところがアメリカは例外で、FIAが定義するASNに該当する組織、つまり許認可権を持つ国内自動車クラブに該当するものが複数存在する。先に触れたNASCAR、CART、IRL、NHRAが、それぞれのイベントがライブで放映されている点で代表的なものだが、他にも本来のASNに似た組織のSCCAやアメリカのスポーツカーを統括するPSCR(元はIMSA)がある。

それぞれのクラブがどの分野のレースを統括しているかについては日を改めて説明するが、とにかく60近いこのような自動車クラブが平行して独自のレースを統括しているのだからアメリカにモータースポーツの種類が少ないわけがない。

もちろんアメリカでも国際イベントは開催されるわけで、FIAとのパイプ役(本来のASNだ)を勤めるACCUS、オートモービル・コンペティッション・コミッティー・フォー・ザ・USという組織がある。ただしACCUSはあくまでも調整役であり、許認可権は持たない。ACCUSのような組織は運営のしかたによってモータースポーツを独占できるわけだから、公平を旨とするアメリカではASNのような権能、が許認可に関係すること自体が許されないことなのだ。

日本ではJAFが唯一絶対のモータースポーツ権能だが、それがアメリカなら、間違いなくアンチトラスト法(日本の独占禁止法)で独占統括に対する排除命令が出されるところだ。

さて、ここからが重要な点だ。ひとつの統括団体しか存在しない、例えば日本。そこではJAFの意向にそぐわないものはありえない。車両規則にしろレース規則にしろ、規則に合致しないものは全て非公認の烙印を押される。

アメリカの場合、ACCUSは統括団体ではないから、公認・非公認を問題にすることはない。あくまでも国際競技を円滑に開催することが至上命題なのだ。だから、CARTであれNASCARであれ、それぞれの統括団体がそれぞれの方法でそれぞれのレースを統括することには関与しない。「アメリカにはありとあらゆる種類のモータースポーツがある」と言い続ける背景には、複数の統括団体が異なるモータースポーツ市場を積極的に開拓し続けている事実がある。

換言すれば、アメリカで行われているレースというレースは、JAFの言葉を借りるなら、全てが「非公認競技」にあたるイベントになる。

日本では原則として非公認競技は認められていないのだから、ありとあらゆるモータースポーツが存在することは不可能だ。なにしろ、公認されるものは全てJAFの常識であって、その世界を超えることは絶対にありえないからだ。

余談になるが、だからJAFの、あるいは日本のレース界の常識なんてクソ食らえという若者が、ローリング族とかドリフト族に共通意識を見出す。彼らにふられた腹いせでもないだろうが、常識人のJAFや日本のレース界は「彼らはいわゆるレーサーではありません」と、同じ車を使った楽しみを生業にしていながら、自分達の技量の無さで彼らを吸収できないのを恥じる風もなく、彼らを切り捨てることでしのいでいる。

アメリカに多くの公認団体が存在するのも、違った思想の人でも尊重できる土壌があるからだ。共存共栄が自分達にも利益をもたらせる、と極めて合理的に考えれいるからだ。

「線のこちらが常識で向こう側は無視してかまわない」とする日本の常識には、生産性、創造性のかけらもない。ひょっとすると日本は先進国じゃなくて世界有数の社会主義国家なのではないか、と思うのは半分は冗談で、半分は本気なのだ。

きわめて日本的なもの

モータースポーツの場合もそうだが、はっきり言って日本にはいわゆる「日本オリジナル」がない。つまり「よそから借りてきたもの」を基盤に日本は成り立っている。その最たる例が規則や組織のあり方だ。JAFの車両規則もレース規則も、日本向けのアレンジはしてあるが、本来はヨーロッパのものだ。「日本オリジナル」がないから形を作るための決まりや器を借りてきて、それに日本の実状のほうを歪めて無理に押し込んでいる、といった図式がいわゆる日本流だ。

中身はなくても最初から形があるのだから、全てがその枠に入らなければ具合が悪い。とにかく入れることのが先決問題なのだ。そこには何をどのような順序で入れればより最適な結果がもたらされるかといった思考と意識はない。常に変化している世の中の実状にそぐわなくても、形を守ることが全てに優先される。枠にはめることで精一杯だから、「入るのに一生懸命でない異分子」や「手間をとりそうな新しい要素」はまず排斥される。結果、器の中身は同じ方向性を備えるエレメントで満たされることになる。

決して個々の独立した要素が集合して器を満たしているのではなく、器の中にあるものだけが、個々の差異があろうとなかろうと、唯一正式な要素として認められる。日本とはそんな社会だ。

別に日本を否定しているわけではない。日本には伝統に裏付けられた芸術や文化はある。日本固有の美味しい食べ物もある。日本人に生まれてよかったとしみじみ思うことも少なくない。

ところが残念ながらというか、困ったことにというか、そういった日本独特のものは、海外との交流の場で共通言語となり得ない。日本とアメリカの間に限って言えば、そこにあるのは市場主義しかない。消費者主導、あるいはコンシューマー・オリエンテッドと呼ばれるものだ。

アメリカでは、市場を作り市場を拡大するためには器の形を変えることも辞さない。なぜならば器の形を保ちたいという意識は「てめえ」の勝手。消費者と市場には関係がない。市場を対象としているのだから、市場の必要性があれば「てめえ」の方が、形を変えようとなんとか対応するのがあたりまえだ、という意識があるからだ。

大袈裟なものではないが、そんな比較文化に思いを巡らしていると、つい疑問が湧き起こる。「日本人って、何かに生かされているような気がしない?何かそれぞれの人生がもう決まっていて、一人ひとりはそれを演じているだけ。アメリカ人にしてみれば、すごく他力本願的に写るよネ」と。

ツインリンクもてぎを核としたアメリカンモータースポーツの導入、そして参加型のモータースポーツの実践という今までにない発想が期待をもって受け入れられてから久しい。しかし、現状は目指すべきところを履き違えているように映る。

「新しいものが定着するには時間がかかるヨ」といわれたことがあるが、時間が経てば日本のモータースポーツが盛んになって、しかもアメリカと日本の関係がうまくいくようになるのか。そうは思わない。

今、世界はものすごい勢いで動いている。既にビッグ3の一角であるクライスラーの名前はメルセデス・ベンツと対で使われている。半年前には考えられなかったことだ。

エンターテイメントとして確立していない日本のモータースポーツは、世界の潮流に乗り遅れている。日本でモータースポーツそのものが否定される日が来ないとも限らない。

しみじみと思う。「手後れにならなければいいが」と。